こんにちは!ラドン(ねこ・♂1歳)です。
今日は「アスリート伝説」をお送りします。
今月は「星野仙一」さんをピックアップ!
星野さんは岡山県出身で、高校は「岡山県立倉敷商業高校」に進学しましたが、甲子園の出場はありませんでした。高校卒業後に「明治大学」に進学し、1年生のころから1軍メンバーとして活躍し、2年生秋には対立教大学戦で「ノーヒットノーラン」を記録しました。
1968年のドラフト会議でドラフト1位で中日に入団。ピッチャーとして、1969年~1982年まで中日一筋で活躍しました。通算成績ですが、500試合登板し、勝敗数は146勝121敗、最多勝利数が1977年に18勝をしました。巨人に対しては35勝31敗と勝ち越しを記録し、「巨人キラー」とも呼ばれていました。1983年に阪急(現:オリックス)とのオープン戦で現役を引退しました。
選手引退後は野球評論家として、テレビ解説やスポーツ新聞などで執筆をしました。
1986年に中日の監督に就任し、立浪和義さん、山崎武司さん、山本 昌さんなど、多くの選手たちを輩出しました。中日の監督時代では1988年、1999年にリーグ優勝に貢献しました。1992年に監督を一度辞任し、野球評論家として活躍しましたが、1995年に監督を復帰しました。監督時代には多くのCMに出演し、特に第一製薬(現:第一三共ヘルスケア)の「センロック」では「♪星野は~いつ~も~胃がい~たい~♪」という「いつでも夢を」の替え歌をバックにゴルフをラウンドする映像が流れたことで話題になりました。
2001年オフに阪神の監督に就任し、低迷していたチームを建て直し、金本知憲さん(現:阪神監督)、矢野耀大さん(現:阪神2軍監督。その当時の登録名は本名の矢野輝弘)、下柳 剛さんらを輩出しました。阪神の監督時代では2003年にリーグ優勝に貢献しましたが、健康上の理由で監督を退任しました。
阪神の監督退任後は阪神のオーナー付シニアディレクターに就任し、シニアディレクターを務める傍ら、野球評論家やタレントとして活動をしましたが、2010年オフに楽天の監督に就任。楽天では田中将大投手(現:ヤンキース)、嶋 基宏選手、美馬 学投手らを輩出しました。楽天の監督時代では2013年にリーグ優勝し、日本シリーズでは対巨人に勝利し、監督として初めて日本一に貢献しました。しかし、Aクラスに上がったのは2013年の日本一だけで、他の年はBクラスでした。2014年に持病の腰痛が悪化し、監督を休養し、そのまま監督を退任しました。休養後の検査で「腰椎椎間板ヘルニア」「胸椎黄色靭帯骨化症」と診断され、治療に専念しました。
楽天の監督を退任後の2014年に楽天のシニアアドバイザーに就任し、2015年に楽天の球団取締役副会長に就任しました。2017年に「野球殿堂入り」に選出し、同年12月に「野球殿堂入りを祝う会」に出席をしましたが、この会が公での最期の姿となりました。
星野仙一さんは2018年にすい臓がんのために亡くなりました。70歳でした。2016年に急性すい炎を発症した際にすい臓がんが発覚し、星野さんの意向で病については一切公にはされませんでした。その後は三重県内で密葬が行われ、同年3月にお別れの会が楽天主催が東京都内で、阪神主催が大阪府内で行われました。星野さんの死後から4日後に楽天の本拠地である楽天生命パーク宮城にて献花台が設置され、多くの楽天ファンらが訪れました。また、同年3月に阪神主催で阪神甲子園球場での阪神・中日のオープン戦を星野さんの追悼試合として開催し、阪神は監督時代の背番号「77」を、中日は選手時代の背番号「20」をつけた特別ユニホームでプレーをしました。楽天は同年3月に星野さんが監督時代につけていた背番号「77」を永久欠番にすることを発表しました。選手時代から監督時代まで、最期まで星野さんのスタイルを貫きました。星野さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
次はどの選手が登場するのでしょうか?次回は8月にお送りします。
というわけで、ラドンでした。
バイバ~イ(^_^)/
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