梅の実学園の仲間たち

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アスリート伝説(その6)

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こんにちは!架純(高2)です。

今日は「アスリート伝説」をお送りします。

 

今月は「浅田真央」さんをピックアップ!

浅田真央 私のスケート人生

浅田真央 私のスケート人生

 

浅田さんは日本を代表する女子フィギュアスケート選手でした。

 

浅田さんは愛知県の出身で、5歳の時にスケートリンクに遊びに行ったときにスケートに出会い、地元にある「名東フィギュアスケートクラブ」に入会。スケートのレッスンと同時にバレエのレッスンを受けました。2000年のシーズンから地元の名門クラブ「グランプリ東海クラブ」に所属し、山田満知子さん、樋口美穂子さんの両コーチに師事。その当時はノービスの扱いでしたが、小学6年生の時に「全日本選手権」で特例で出場し、3回転3つのコンビネーションジャンプを跳び、「天才少女」と呼ばれました。

ジュニアに昇格した中学生の時の2004年シーズンのジュニアグランプリシリーズに出場し、3戦すべて優勝し、「ジュニアグランプリファイナル」では女子ジュニア史上初の「トリプルアクセル」に成功し、「全日本選手権」でもトリプルアクセルを成功しました。トリプルアクセル伊藤みどりさんが女子では世界で初めて成功し、現在まで数人しか成功していません。浅田さんは5人目のトリプルアクセルの成功者で、当時最年少での成功者でした。2005年シーズンに初のシニアの大会であるグランプリシリーズに出場し、「中国杯」では2位、「エリック・ボンパール杯」では優勝しました。「グランプリファイナル」では当時の世界女王だったイリーナ・スルツカヤさんを破り、日本代表選手では村主章枝さん以来、2人目の優勝を果たしました。グランプリシリーズの実績から、「トリノオリンピック」出場を期待する声がありましたが、国際スケート連盟(ISU)が定めた年齢制限に満たしていないため、代表資格を得ることができませんでした。ちなみに「トリノオリンピック」では荒川静香さんが日本女子フィギュアでは初の金メダルを獲得しました。「トリノオリンピック」に出ることができなくなった浅田さんは「世界ジュニア選手権」に出場し、ジャンプのミスが響き、2位に終わり、優勝したのはのちのライバルとなる韓国のキム・ヨナさんでした。

高校は「中京大学附属中京高校」に進学し、コーチを中学時代まで務めた山田さんらからラファエル・アルトゥニアン氏に変更し、学業と両立しながら、アメリカに拠点を移しました。2006年シーズンのグランプリシリーズの「NHK杯」では当時のISU歴代最高得点をたたき出して優勝しましたが、「グランプリファイナル」では2位でした。2007年シーズンではロシアに渡って、バレエなどに取り組み、「全日本選手権」では2006年シーズンに続き、2連覇を達成しましたが、慣れない海外生活での心労や、2007年5月に「中京大学」のフィギュア専用リンクが完成し、国内で練習に専念できる環境が整ったことを理由に、アメリカから地元・愛知に拠点を戻しましたが、アルトゥニアン氏との師弟関係を解消されました。「世界選手権」ではコーチ不在やけがが完治していない状況の中、優勝し、日本人選手5人目の世界女王となりました。2008年シーズンからはタチアナ・タラソワさんがコーチとなり、苦手なルッツやサルコウをプログラムに入れるなど、多くの課題に挑戦しました。その甲斐あって、「グランプリファイナル」では国際大会では女子史上初となる2度のトリプルアクセルに成功し、3季ぶり2度目の優勝を果たし、「全日本選手権」では3連覇を達成しましたが、「世界選手権」ではミスが重なって4位となり、シニアの国際大会では初めて表彰台を逃しました。「グランプリファイナル」優勝後に放送されたテレビ番組で「浅田選手よりもキム選手の方が実力が上」と感じさせる報道をされたことで、落ち込み、一時期は練習の意欲を失い、「世界選手権」連覇の重圧に苦しむなど、メンタルの難しさも課題となりました。

高校卒業後は「中京大学」に進学。「バンクーバーオリンピック」の年である2009年シーズンでは、グランプリシリーズでは不調に陥りましたが、「全日本選手権」では復調を見せ、4連覇を達成して「バンクーバーオリンピック」代表入りを果たしました。「バンクーバーオリンピック」ではミスや回転不足の影響で銀メダルとなりました。金メダルはキムさんで、インタビューの際は満足な演技ができなかったことで涙を流し、悔しさを引きずっていましたが、母親から「銀メダルってすごいんだよ」と言われたことで、結果を受け入れることができました。「世界選手権」ではキムさんを破り、2年ぶりに優勝しました。

2010年シーズンの6月から9月までの3ヶ月間は鈴木明子さんらのコーチだった長久保 裕氏をジャンプ専門のコーチをつけ、ジャンプの矯正に取り組みましたが、9月からはコーチを佐藤信夫氏に師事し、のちに引退するまでの師弟関係となりました。その後のグランプリシリーズでは思うような結果がでませんでしたが、「全日本選手権」では2位となりました。「世界選手権」は「東日本大震災」の影響で延期となり、その間に被災地の惨状を目の当たりにし、「こんな時に大会に行ってもいいのだろうか?」と練習に身が入らなくなりました。見かねた佐藤氏から1週間の休養を与えたものの、食が細くなり、体重も減少しました。大会本番では佐藤氏からトリプルアクセル回避を提言されましたが、自分の信念を貫き通し、結果は6位でした。2011年シーズンは3季ぶりに「グランプリファイナル」進出を決めましたが、母親の健康状態が悪化したため、すぐに日本に帰国して「グランプリファイナル」を欠場。その後、母親が48歳の若さで死去されました。母親を亡くした悲しみをこらえながら臨んだ「全日本選手権」では2年ぶり5度目の優勝を果たしました。2012年シーズンでは疲労から発症した腰痛に悩まされながらも、「グランプリファイナル」「全日本選手権」「四大陸選手権」では相次いで優勝を果たし、「世界選手権」では2位でした。

2013年シーズンではグランプリシリーズの「スケートアメリカ」で優勝し、シングルの選手でグランプリシリーズ全7大会をすべて制したのは史上初となりました。そして、「ソチオリンピック」の代表に選ばれ、2大会連続のオリンピック出場を果たしました。「ソチオリンピック」では、ショートプログラムで転倒やミスが相次ぎ、16位という結果となり、演技後のインタビューでは「何もわからない」と放心状態となりました。しかし、フリースケーティングではトリプルアクセルを成功し、他のジャンプや演技でも高い評価となり、フリーでは3位となりました。トリプルアクセルの成功は「バンクーバーオリンピック」を含め2大会連続の成功となり、女子では初の快挙となりましたが、ショートプログラムの点差が響き、全体の6位となり、メダル獲得はなりませんでした。フリーの演技を終えると、大歓声とともに感無量の表情で涙を浮かべ、完成に笑顔で答えてリンクを去りました。日本開催の「世界選手権」では4年ぶり3度目の優勝を果たし、世界選手権の3回制覇は男女を通じて最多となりました。

2014年シーズンは1年間の休養を発表し、休学中だった大学の勉強に復帰し、無事に大学を卒業。2015年に公式ブログにおいて、現役続行の意思を明らかにしました。

2015年シーズンでは「グランプリファイナル」に進出するも、「グランプリファイナル」のフリー当日に体調を崩した影響で、最下位の6位となりました。「全日本選手権」では3位となり、伊藤さんに並ぶ、11個目のメダルを獲得しました。「世界選手権」ではシーズンベストを記録したものの、7位となりました。2016年シーズンでは自身の不調が続いたことや日本でも若手選手の台頭もあり、「全日本選手権」では12位となり、「世界選手権」代表入りを逃しました。そして、「全日本選手権」が選手としての最後となりました。

 

浅田さんは2017年にブログで現役引退を表明し、東京都内のホテルで引退会見を開きました。引退後はプロスケーターとして、各地のアイスショーに出演し、自身が座長を務めるアイスショーを現役時代から各地の公演に出演。タレントとして、テレビやラジオにゲスト出演をしたりしています。小さい頃から「天才少女」として、数々の演技で感動と衝撃を与え、のちの後輩たちが浅田さんの演技にあこがれ、多くの有名フィギュアスケート選手を輩出し、日本のフィギュアスケート人気の火付け役に貢献しました。スケート大国であるロシアでも浅田さんのファンが多く、ロシアでファンクラブがあるほどの人気で、選手の育成でも浅田さんをお手本にしています。お姉さんは元フィギュアスケート選手で、スポーツキャスター・タレントの浅田 舞さんです。

 

次はどの選手が登場するのでしょうか?次回は4月にお送りします。

 

というわけで、架純でした。

バイバ~イ(^_^)/

 

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