こんにちは。貴美(高2)です。
私の家族は、3人家族。
お父さんの孝章(41歳・メーカー勤務)と妹の胡桃(小5)と私です。
今日は3人で墓参りに。
この日は10年前に亡くなった母の命日です。
いつものように花などを添えて、合掌。
今日は私たちの母のことについてお話します。
~10年前~
私の母は、都内の保育園で保育士をしていました。
仕事が忙しいけど、家事もしっかりこなす、とても優しいお母さんです。
お父さんは仕事が忙しく、いつも帰りが遅いですが、母や私たち姉妹を大事にします。
そんな私たち家族を襲ったのは、11年前。胡桃が生まれた直後のことでした。
当時、幼稚園の年長だった私は新しいきょうだいができるのを心待ちにしていました。
私が生まれた後の2年後には、母のおなかの中には弟か妹かがいましたが、予定日より早く流産しちゃいました。その後の4年後にできた新しい命。
そして無事に元気な女の子が生まれました。それが胡桃です。
私にとってはたった一人の妹。妹ができたから、急にお姉さんらしくなりましたね。
それから、胡桃は元気に育っていましたが、それと引き換えに母が病魔に侵されました。
胡桃と一緒に受けた検診で、母を担当していた産婦人科医がたまたま母のレントゲンに異変があったため、母だけ検査を受けることになりました。
検査の結果の日。私と胡桃は小児科の看護師さんと一緒に小児病棟にあるプレイルームへ。お父さんだけ先生に呼ばれました。
結果は「乳がん」でした。しかも進行性。病魔は末期に近い状態でした。
先生はすぐに入院が必要と診断。胡桃に飲ませている母乳は中断し、粉ミルクに切り替えました。
お父さんは一人でずっと苦しかったでしょう。最愛の妻が病に侵されていることを。そしてまだ幼い私たち姉妹のの子育てのことを。
母は即入院。自分の病気のことは、お父さんが告知しました。
母は最初、動揺しましたが、子どもたちのためにがんばると、決心しました。
職場は休職して、治療に専念。約何時間に及ぶ手術、副作用の強い抗がん剤に放射線治療…。想像を絶する治療でした。
お父さんは仕事が優先ですが、会社が終わったら、すぐに母のもとへ。母の看病に注いでいます。
私たち姉妹は、母の実家へ住むことに。私たちの面倒はおばあちゃん、おじいちゃんが見てくれました。
休みの日にはおばあちゃんたちと一緒に病院へ。母に会いに行きました。
母は日に日に弱っていた時がありましたが、弱音を吐かずに、いつものように明るさを振舞いました。
そして、つらい治療の結果、母は元気になりました!
久しぶりの家族水入らず。外食もいいけど、やっぱり母が作るご飯がいいな(*^。^*)
その後、母は職場復帰し、いつものように家事・育児をこなしました。
私は小学生になり、母や妹の面倒を見ることになりました。
しかし、幸せになったのもつかの間、母の定期検診の結果、「再発」したことがわかりました。
再び入院。またつらい治療に。病魔は最初に手術をした右の乳房だったのが、今度は反対の乳房に。そして、肺やリンパ節などに転移が見つかりました。
先生は手術は不可能で、抗がん剤などの化学療法や放射線治療以外ありませんでした。
母は、残された時間を家族で過ごしたいと、延命治療をせずに、薬を服用しながら家で過ごすことにしました。
お父さんは、私だけ呼んで、母のことを話しました。
孝章「貴美、実はお母さんのことだけど、お母さん、もうそんなに長くないんだ。」
貴美「え?何で?」
孝章「お母さんは大きな病気にかかって、完全に治すことができないんだ。もしかしたらお前や胡桃の目の前でいなくなるかもしれないんだ。」
私は、いっぱい泣きました。母がいなくなってしまうかもしれないことを。
孝章「だから、お父さんもお前たち2人もお母さんを支えていこう!つらいけど、お母さんの最期を…。」
お父さんが泣いていた。お父さんもつらかったんだね。
孝章「貴美!」
私とお父さんは一緒に泣きました。
母はお父さんと私たち姉妹との思い出を作りたいと、家族旅行に出かけたり、近場へ買い物へ出かけました。
仕事も家事・育児もいつものようにこなし、家族のだんらんもいつもどおりでした。
しかし、母の容体が急変し、緊急入院!
人工呼吸器をつけて、体に点滴や機械をつけられた母は本当に苦しそうだった。
母「パパ、貴美、胡桃…今までありがとう…パパ…貴美と胡桃をよろしくね…。貴美…胡桃…生まれてきてくれて…ありが…と…う…。」
母の目に涙が…。
この言葉が、母の最期の言葉だった。
その後、意識がなくなり、ICU(集中治療室)へ。
私と胡桃、お父さん、(両親の)おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に、母のそばについていました。
母は弱ってしまい、やがて心肺停止に。
先生たちの懸命の延命治療をしましたが、母は息を引き取りました。まだ31歳の若さ。
胡桃はまだ小さいので、母に向かって「ママ起きて…。」って何度も言いました。
私とお父さんたちは泣きました。ずっと、ずっと、泣きました…。
その後、母の葬儀が行われました。親族や親しい友人のみで行いましたが、職場だった保育園の園児やその保護者など、多くの方が母の元へやってきました。
明るくて優しかった母は、保育園では園児や保護者、職場の同僚からも慕われていました。
たくさんの方たちが母の死を惜しみました。
そして10年後、私は高校生に。胡桃は小学生になりました。
お父さんは会社の総務課の係長になりました。
胡桃はまだ小さかったので、母の死を覚えていませんが、それでも母の仏壇に毎日手をあわせています。
お父さんは相変わらず仕事で忙しいですが、接待など用事がある日以外は、必ず家へ帰ってきます。
母がいなくなってからしばらくは、家事はおばあちゃんが来てくれて、ずっとやってくれましたが、私が高学年になってからは、自分でするようになりました。胡桃も私の手伝いをしてくれます。
私の将来の夢は、母と同じ保育士か看護師を目指しています。
保育士は、母のような子どもに慕われる先生になりたいこと。看護師は、ずっと母が苦しんでいるのを優しく声をかけてくれたことなどをずっと見てきたからです。
そして、もう一つの夢は、「乳がん」や「子宮頸がん」をこの世から撲滅することです。
乳がんや子宮頸がんは、日本では毎年発生し、死者も多いです。特に母のような30代、40代の死者が多いことにとてもショックを受けています。中には20代でかかる人もいます。
いずれも早期発見すれば治るか、進行を遅らせることができます。子宮頸がんはウイルスが原因のがんで、「子宮頸がんワクチン」で予防することができます。私もワクチン接種をしました。胡桃はまだですが、いずれはワクチン接種をする予定です。
私と胡桃は、「梅の実」の女子メンバーに、「乳がん」「子宮頸がん」の定期的健診やワクチン接種を呼びかけています。何人かのメンバーたちは賛同してくれて、定期的に健診をしてくれる女性メンバーたちもいます。
これ以上、母のような悲しみを増やさないために…。
私たち家族は、亡き母の分まで、これからも生きていきます!
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