こんにちは。康紀(中2)です。
今日は「人気の小説・エッセイ」をお送りします。
今月は「宮沢賢治」をピックアップ!
宮沢賢治は岩手県花巻市(その当時は稗貫郡里川口村)出身の詩人・童話作家で、多くの作品を残しました。
写真は代表作である「銀河鉄道の夜」です。
宮沢賢治は1896年に生まれましたが、生後5日後に秋田県東部を震源とする「陸羽地震」の発生や1902年に赤痢にかかるなど、大変な幼児期を過ごしましたが、1903年に花巻川口尋常小学校(のちの花城尋常小学校。のちに統合し、現:花巻市立花巻小学校)に入学し、成績は6年間優秀な成績でした。1909年に岩手県立盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高校)に入学し、寄宿舎に入寮。3年生の時に石川啄木の影響を受け、短歌を制作。1914年に中学を卒業しましたが、肥厚性鼻炎の影響で、中学卒業から1ヶ月後に入院。看病していた父親も感染して入院しました。入院中に出会った病院の看護婦(現:看護師)に思いを寄せ、結婚がしたいと両親に申し出ましたが、「若すぎる」という理由で反対されました。
1915年に盛岡高等農林学校(現:岩手大学(農学部))に首席で入学。1917年に小菅健吉らと同人誌「アザリア」を発行。賢治は短歌や短編を寄稿しました。1918年に農林学校を卒業し、研究生となりました。この頃に「蜘蛛となめくじと狸」「双子の星」を執筆しました。1920年に農林学校の研究生を卒業しました。
1921年に家を出て上京しましたが、母親の病気の電報を受け、花巻に戻りました。その後、稗貫郡立稗貫農学校(のちの岩手県立花巻農学校。現:岩手県立花巻農業高校)の教師となりました。1922年に母親が亡くなり、ショックで号泣しました。その後は「松の針」などを執筆しましたが、半年間は詩作はしませんでした。1923年に「青森挽歌」などを執筆しました。
1924年に「心象スケッチ 春と修羅」を自費出版として刊行しましたが、本は売れず、のちにダダイストの辻 潤が読売新聞で連載していたエッセイで紹介し、その後佐藤惣之助や中原中也が賢治の作品を紹介したり、本を買い集めたりしました。この頃から本格的に詩人や童話作家としての活動を開始しました。1925年に草野心平の同人誌「銅鑼」に参加。
1926年に農学校を退職し、農業をしながら執筆活動をし、数々の作品を執筆しましたが、1928年に高熱で倒れ、病院で両側肺湿潤との診断を受けましたが、1930年に回復し、執筆を再開。1931年に東北砕石工場花巻出張所が開設し、賢治は技師として仕事をしました。しかし、再び高熱で倒れ、病床生活に入りました。病床中に賢治は手帳に「雨ニモマケズ」を執筆。他にも数々の作品を執筆しましたが、1933年に急性肺炎のために37歳の若さで亡くなりました。
宮沢賢治の死後、数々の作品が映画やドラマ、舞台、アニメとして取り上げられ、多くの評論家たちが宮沢賢治の作品の評論を執筆されました。賢治の生まれ故郷である花巻市では「宮沢賢治記念館」を開館し、岩手県一関市には「石と賢治のミュージアム」を開館しました。宮沢賢治亡き今も多くの方が作品を語られて、受け継がれています。
次はどの作家の作品を紹介するのでしょうか?次回は9月にお送りします。
というわけで、康紀でした。
また明日。
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