梅の実学園の仲間たち

梅の実学園のメンバー(生徒)たちの物語です。現在のメンバーたちは4800人(匹)!!みんなで作る学園です!!

人気のまんが(その51)

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こんにちは。映(45歳・造船会社勤務)です。

今日は「人気のまんが」をお送りします。

 

今月は「富永一朗」さんをピックアップ!

 

富永さんは日本のまんが家で、執筆活動のほか、バラエティにも出演していました。

今日はすべてではありませんが、富永さんの作品を紹介します。

今日は「チンコロ姐ちゃん」を紹介します。この作品は1960年ごろに刊行されたまんがです。

 

富永さんは京都府で生まれましたが、3歳の時に父親を肺結核で亡くし、母親とともに福島県で育ちました。のちに大分県に移住し、小学生の時にまんがを描き始めました。大分県立佐伯中学(現:大分県佐伯鶴城高校)在学中に母親が恋愛事件を起こして子どもを産み、東京に出て行ってしまったため、祖母に育てられました。中学卒業後は台湾の台南師範学校(現:国立台南大学)に入学したものの、在学中に学徒動員で兵隊にとられ、二等兵として訓練を受け、卒業後に教員になったものの、台湾で浮浪者の生活を余儀なくされ、その後日本に帰国しました。日本に帰国後は地元小学校の教師や編纂の仕事を経て、1953年に貸本まんがなどで下積みを経験し、1958年に新聞記者の紹介で、まんが家の杉浦幸雄さん(故人)を訪問し、「週刊大衆」に連載していた「ゴンさん」の原稿を見せたところ、才能を認められ、「漫画サンデー」の編集者に紹介されて、そこで本格的なデビューとなりました。「ゴンさん」は1ページあたり3本の4コマまんがを複数ページに渡り掲載した方式は現在では一般的ですが、富永さんは「この方式は自分が初めてではないか」と語っていました。まんが家としての代表作は先ほど紹介した「チンコロ…」で、主に週刊誌を中心にまんがを執筆していましたが、女性の裸など下ネタを堂々と扱う作風が一部で批判されました。1962年に杉浦さんらが率いるまんが家グループ「漫画集団」に加入しました。

まんが家としての仕事の傍ら、1976年~1994年までに放送された日本テレビ系(中京テレビ制作)のバラエティ番組「お笑いマンガ道場」にレギュラーとして出演し、共演者であるまんが家の鈴木義司さん(故人)とまんがで対決をするやり取りが人気を博しました。鈴木さんが富永さんに対し「オバケナマコ」や「デブの恵まれない人」「サンショウウオ」などを描いてこき下ろされるのに対し、富永さんは鈴木さんに対し「土管に住んでいる貧乏人」や「毛虫・ミノムシ」「アホウドリ」などを描いてこき下ろしました。このやりとりで2人は仲が悪いと思われますが、実際は数十年来の友人同士で、互いに盟友と公言していました。しかし、2004年に鈴木さんが病気のために亡くなり、鈴木さんの葬儀で富永さんは「元気になったらまた一緒に「マンガ道場」でもやろうぜと言ってたのに…」と肩を落とし、ショックを受けていました。

 

晩年はまんが家としての執筆活動は少なく、還暦を超えて糖尿病と診断され、これまでの生活を改めました。糖尿病の闘病記を執筆し、模範患者として各地の医療関係のシンポジウムや講演を通じて啓発活動も行い、各種まんが・絵画コンテストの審査員を務めています。

御年93歳の現在は健康上の理由で執筆活動はしていませんが、岡山県川上郡川上町(現:高梁市)の名誉町民(名誉市民)で、1994年に「吉備川上ふれあい漫画美術館」の名誉館長を務め、山梨県に「ギャラリー水源の森」や静岡県に「富永一朗忍者漫画館」など9か所で富永さんの業績を記念し作品を展示する施設が建てられています。少年時代を過ごした大分県佐伯市では国道217号線の一部に「イチローロード」が作られ、富永さんの作品をモチーフとした陶板などを配しました。1992年に紫綬褒章を、1998年に勲四等旭日小綬章をそれぞれ受賞。熱狂的な広島東洋カープのファンで、広島が優勝した時には広島ファンを代表してメッセージを送りました。尚、広島カープの選手だった阿南準郎さん、野村謙二郎さん(いずれも現:野球評論家)、廣瀬 純さん(現:広島1軍コーチ)の3人は富永さんの高校(富永は旧制中学卒)の後輩でもあります。

 

次はどのまんが家の作品を紹介するのでしょうか?次回もお楽しみに。

 

というわけで、映でした。

また明日です。

 

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