梅の実学園の仲間たち

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アスリート伝説(その13)

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こんにちは!利杏(高1)です。

今日は「アスリート伝説」をお送りします。

 

今月は「野村克也」さんをピックアップ!

追悼 野村克也 (サンケイスポーツ特別版)

追悼 野村克也 (サンケイスポーツ特別版)

 

野村さんは日本を代表するプロ野球選手・監督・野球評論家で、「ノムさん」の愛称で親しまれていました。

 

野村さんは京都府出身で、お父さんは野村さんが3歳の時に戦争で亡くなりました。家ではお母さんが生計を立てていましたが、病気がちで貧困状態でした。小学生時代はお兄さんとともに新聞配達などのアルバイトをしていました。中学生の時に野球部に入り、キャッチャーとしての才能が開花し、中学生の大会で活躍しました。高校受験で地元の公立高校に進学しましたが、実はお母さんが中学卒業後は働くように言われましたが、お兄さんが大学進学を断念してまで、野村さんを高校に行かせるようお願いしたそうです。高校では地方大会で1回戦負けという弱小チームでしたが、卒業後の進路でプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送りましたが、南海(現:ソフトバンク)の監督だった鶴岡一人さん(故人)だけが返事をくれました。1954年にテスト生として南海に入団しました。

 

シーズン当初は出場機会がなく、オフに戦力外通告を受けましたが、他の選手がけがやトレードなどで離脱したため、残留となりました。一時は一塁手へのコンバートを言い渡されましたが、2軍での結果を残し、再びキャッチャーとして再コンバートされました。1956年に1軍に抜擢され、以降は正捕手に定着しました。1957年に本塁打王のタイトルを獲得し、以降毎年のようにタイトルを獲得し、杉浦 忠さん(故人)らとともに南海の黄金時代に大きく貢献しました。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、1959年と1964年は日本一になりました。1965年には戦後初の三冠王に輝きました。1968年にコーチ兼任となり、同年オフにお母さんが亡くなりました。また、この頃に関係がうまくいかなかった前の奥さんとは別居状態となり、理由は前の奥さんが浮気をしていたことがわかりました。1969年に34歳の若さで選手兼任監督に就任し、その後は選手として多くの結果を残し、1970年に史上4人目となる通算2000本安打を達成しました。この頃からのちの奥さんとなる野村沙知代さん(故人)との交際がスタートしました。監督としては佐藤道郎さん、江本孟紀さんらを輩出し、積極的に自由契約やトレードで放出された選手を獲得し、活躍させたことで、世間からは「野村再生工場」と呼ばれていました。1973年にリーグ優勝を果たしました。しかし、1972年に首脳陣によるクーデターが起こり、一部選手たちが野村さんの指導についていけない人たちが現れました。1977年にシーズン終了まで2試合残して監督を解任され、理由は当時愛人関係だった沙知代さんがチーム・選手への口出しや度重なる公私混同で首脳陣や選手たちとの確執がありました。1978年に前の奥さんと離婚し、沙知代さんと再婚しました。その後はロッテに移籍しました。

ロッテ時代は結果はあまりなく、当時の監督だった金田正一さん(故人)に「若手らにいろいろ教えてやってくれ」と言われアドバイスをするもコーチ陣から煙たがれ、当時のロッテのオーナーから監督をやってくれと言われるも固辞し、自由契約となり、のちに西武に移籍しました。

西武時代では前人未到の3000試合出場を達成しましたが、1978年に引退を表明し、1980年の阪急戦を最後に引退しました。

選手時代の通算成績は3017試合出場、11970打席、10472打数、2901安打、657本塁打、1988打点、113犠飛、1252四球、378併殺打、打率2割7分7厘で、打席、打数、犠飛併殺打の成績はNPB日本野球機構)における歴代最高記録で、通算試合出場数は日本プロ野球歴代2位で、安打、本塁打、打点、塁打数は歴代2位で、いずれもパリーグ記録でした。 

 

引退後の1981年に野球評論家として解説を務めました。1989年に野球殿堂入りをし、のちにヤクルトの監督に就任しました。

ヤクルト時代はデータを重視する「ID野球」を掲げてチームの改革を図り、古田敦也さんらを輩出しました。1992年にリーグ優勝を果たし、1997年にリーグ優勝&日本一を果たしました。しかし、1998年に退団し、同時に阪神の監督に就任しました。

しかし、阪神時代は1990年代からの暗黒時代の立て直しができず、チームは最下位が続き、さらに沙知代さんが脱税容疑で逮捕され、2001年に監督を辞任しました。

2002年に社会人野球のシダックス野球部監督兼ゼネラルマネージャーに就任し、チーム再建に貢献しました。2005年にシダックスの監督を退任し、同時に楽天の監督に就任しました。

楽天時代は当時70歳代だったため、70歳代で監督に就任したのは仰木 彬さん(故人)に次いで史上2人目でした。しかし、阪神監督時代と同様に最下位が続き、2007年は最下位を脱出するもBクラスの4位でした。2008年は5位、2009年では球団創設後初となる2位でAクラス入りしました。クライマックスシリーズの第2ステージの日本ハム戦を最後に監督を退任し、名誉監督に就任しました。

名誉監督に就任するも、2010年からは再び野球評論家に復帰し、解説者やテレビの情報番組に出演するなど、多忙な日々を送りましたが、2010年と2014年に解離性大動脈瘤で入院しましたが、幸い大事には至りませんでした。2017年に沙知代さんが虚血性心不全で亡くなり、憔悴しきった様子となりました。晩年は加齢もあり歩行が不安定で車いすを使用しており、2020年に2019年に亡くなった金田さんのお別れ会に参列しましたが、このお別れ会が公の場では最期となりました。

 

野村克也さんは2020年に自宅の浴槽でぐったりしているところを家政婦が発見し、病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。84歳でした。死因は沙知代さんと同じ虚血性心不全で、2年半前に亡くなった沙知代さんの後を追う形で亡くなりました。葬儀は近親者のみの密葬で行いました。選手時代は昭和のスター選手として数々の記録を残し、監督としてはヤクルトでリーグ優勝・日本一に貢献し、選手の再建にも貢献しました。その一方で、子どものころから母子家庭で、貧困生活を余儀なくされましたが、一流選手になってから金遣いが荒く、沙知代さんと再婚してからは金銭はすべて沙知代さんが管理し、沙知代さんが亡くなるまでおしどり夫婦として歩んできました。子どもさんですが、いずれも元プロ野球選手で、沙知代さんとの間に生まれた子どもが現在は楽天のコーチをしている野村克則さん、沙知代さんとの連れ子に現在はエージェントの団野村さん、スポーツアドバイザーのケニー野村さんの3人がいます。野村さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

 

次はどの選手が登場するのでしょうか?次回は6月にお送りします。

 

というわけで、利杏でした。

バイバ~イ(^_^)/

 

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