梅の実学園の仲間たち

梅の実学園のメンバー(生徒)たちの物語です。現在のメンバーたちは4800人(匹)!!みんなで作る学園です!!

芸人伝説(その15)

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こんにちは。徹夫(33歳・劇団員)です。

今日は「芸人伝説」をお送りします。

 

今月は「志村けん」さんをピックアップ!

志村さんは日本を代表するお笑い芸人・タレントで、多くの作品を残しました。

 

志村さんは東京の東村山市出身で、小学校教師の父親と母親、兄2人の5人家族で、特に教師をしている父親とは厳格で、家庭ではいつも重苦しい雰囲気でした。小学校時代は当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組を見ていたときは父親が声を出して笑っていたことや、学校で友達を笑わせていたことでお笑い芸人の世界にあこがれを抱くようになりました。高校卒業間近にのちの師匠であるいかりや長介さん(故人)の自宅へ直接押しかけ、弟子入りを志願しました。その後「ザ・ドリフターズ」の付き人や下積みを経て、1972年に当時の付き人と一緒にお笑いコンビ「マックボンボン」を結成しましたが、すぐにコンビが解消。他の付き人とともにコンビを組んだものの、自然消滅となりました。

その後、ドリフターズの付き人に戻りましたが、1973年に「メンバー見習い」の扱いで、ドリフターズに加入しました。1974年に荒井 注さん(故人)が脱退し、正式にドリフターズに加入しました。ドリフターズ加入以後はなかなかブレイクしませんでしたが、2年後に「8時だョ!全員集合」のコーナー、「少年少女合唱隊」で「東村山音頭」を披露し、大ブレイクとなりました。この「東村山音頭」は志村さんの生まれ故郷である東村山市知名度向上に大きく貢献しました。

その後は次々とヒットを連発し、志村さん個人だけでなく、加藤 茶さんとのコンビでもヒットギャグを連発しました。しかし、1981年に仲本工事さんらとともに競馬のノミ行為容疑で任意聴収を受け書類送検され、仲本さんとともに1か月間謹慎となり、「全員集合」などの出演を見合わせました。1985年に「全員集合」が終了し、本格的にお笑い芸人として再出発となりました。

 

全員集合時代のギャグでは「東村山音頭」のほかに、コント劇で志村さんの背後にお化けやミイラなどの恐ろしい存在が現れ、観客の子どもたちが「志村、後ろ、後ろ!」という声が叫ぶようになり、恐怖系のコントのお約束となりました。コント劇や少年少女合唱隊の最後あたりから童謡「七つの子」の替え歌を歌った「カラスの勝手」はカラスのぬいぐるみが「カー!カー!」と鳴き、志村さんが観客とともに「♪カ~ラ~ス~なぜ泣くの~カラスの勝手でしょ~♪」と歌って終わります。加藤さんとのコンビでは「ヒゲダンス」や「ピッカピッカの1年生」など、仲本さんとのコンビでは西部劇のセットをバックにじゃんけんをして負けたら罰ゲームをする「ジャンケン決闘」、このほかゲスト出演者とのコントや芸能人のパロティなどをやっていました。

全員集合以外ではのちに紹介する「志村けんのだいじょうぶだぁ」では「そうです。私が変なおじさんです。変なおじさん!変なおじさん!…だっふんだ!!」とギャグを飛ばす「変なおじさん」、「アイーン」。アイーンは「全員集合」時代に「怒っちゃヤ~ヨ!」というギャグがありましたが、アイーンは「怒っちゃ…」の腕の位置がもう少し下がったポーズであります。また、「志村けんのバカ殿様」でおなじみの「バカ殿様」はもともとは「全員集合」でやっていたコントで、のちに独立番組として人気を博しました。

 

「全員集合」終了後は加藤さんとともに「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」がスタートし、前半が加藤さんとのコントで、後半は「おもしろビデオコーナー」で、特にビデオコーナーでは志村さん自ら企画したもので、のちに家庭にビデオカメラで子どもや動物などが撮影されたものがヒットし、のちのYouTubeの基礎を作りました。単独では「志村けんのだいじょうぶだぁ」と「志村けんのバカ殿様」がスタートし、この頃からドリフターズメンバー以外との活動が増えてきました。

1990年代以降も数々のバラエティに出演し、1990年代後半からはゲストとして呼ばれることが多くなりました。子どもの時にテレビで志村さんを見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3のピークを迎えていました。「全員集合」を知らない若い人たちにも人気を博しました。2004年に「天才!志村どうぶつ園」がスタートし、動物好きである志村さんの人柄をそのまま活かし、人気番組となりました。2006年に舞台「志村魂(しむらこん)」が上演し、その後毎年上演されました。

2016年に肺炎で入院し、予定されていた「志村魂」の公演が中止となりました。それまでは1日に3箱のたばこを吸うほどのヘビースモーカーでしたが、肺炎を機に禁煙をしました。2020年に胃のポリープの内視鏡手術をしたことを告白し、直接的に仕事に影響を及ぼすことはありませんでした。かねてから俳優としての活動は1999年に放映された映画「鉄道員」に出演した以外はありませんでしたが、2020年に菅田将暉さんとのダブル主演の映画「キネマの神様」で約20年ぶりに映画出演が決まり、ドラマでもNHK連続テレビ小説「エール」に出演することが決まり、芸人以外の仕事にも意欲的に取り組もうとしました。しかし、2020年3月にあのウイルスにより活動が永遠に絶たれてしまいました。

 

志村けんさんは2020年に「新型コロナウイルス」による肺炎のために死去しました。70歳でした。この新型コロナウイルス発症時の3月に倦怠感を訴え、自宅で静養。その後発熱と呼吸困難の症状が出始め、訪問診療をした医師の判断で東京都内の病院へ緊急入院し、重度の肺炎と診断されました。その後PCR検査で陽性反応が出て、感染症治療実績のある東京都内の別の病院に転院し、エクモを装着しましたが、帰らぬ人となりました。死去後は感染症の法律により、24時間以内に火葬をしなければならず、志村さんの唯一の家族である上のお兄さんら遺族との対面もできず、骨を拾うこともできませんでした。尚、新型コロナウイルス感染終息後にお別れ会を実施する予定です。

子どものころからお笑いの世界を夢見て、ドリフターズの付き人を経てドリフターズのメンバーに。のちに大ブレイクし、死去するまで日本を代表するお笑い芸人として君臨しました。ドリフターズでは一時はいかりやさんとの不仲説もささやかれていましたが、いかりやさんが死去したときは加藤さんとともに真っ先に向かい、ショックで動けなかったエピソードがありました。志村さんとは多くの芸能人との交友関係があり、沢田研二さん、研 ナオコさん、桑野信義さん、ダチョウ俱楽部、嵐の相葉雅紀さん、タカアンドトシ、千鳥の大悟さんなど、そうそうたる面々がいます。プライベートでは結婚願望はあるものの、生涯独身を貫いており、芸能人でも太地喜和子さん(故人)やいしのようこさんらとの交際のうわさもありました。また、競馬の馬主としてアイーンベルなどを所有しており、車は持っているものの、車の免許を持っていないため、専属の運転手を雇っていました。志村さんの地元・東村山市では、1976年に感謝状が贈られ、東村山駅東口の交番前に3本のけやきが植えられました。このけやきの木は「志村けんの木」と称され、看板には志村さん直筆で「志村けんの木」と書かれ、設置されました。まだまだいろいろ活躍する場が見たいのに、驚異的で恐ろしいウイルスでこの世を去ったのは本当に悲しいです。改めて、志村さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

 

次はどの芸人が登場するのでしょうか?次回もお楽しみに。

 

というわけで、徹夫でした。

また明日。

 

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